音楽の愉しみ
昨日は久々の10月10日の体育の日、堂々の晴れの特異日でありました。
母校であるところの山王中学校の定期演奏会に、昨年に引き続き出演してきました。部員たちの成長・上達はもちろんのことですが、懐かしい人脈の再確認、そして新しい人脈の構築と、たいへん有意義な時間でした。
例によって、演奏会終了後の反省会(兼三年生お疲れ様会)でコメントを、というので…。文字どおり「音楽は楽しいよ」という話をさせていただくとき、毎度のお話になってしまいますが、という前置きを付けつつ、これから先の長い人生でも、音楽を楽しんでください、それは言語を扱うことと同様に、人間だけに与えられた能力であり、人生を豊かにしてくれるものだ、ということを話しています。いわゆる音楽と呼ばれる、空気振動とその時間変化パターンを高度に発達した理論体系でまとめ、さらにその蓄積された先人の知恵を自由に発展させて至福を感じるという極めて複雑な楽しみは、圧倒的な論理思考能力を持つ人間だからこその産物です。
何をもって人生が豊かであるか、という定義次第ではあるのですが、個人差(もしくはあえて「個体差」)はあれど、それぞれの置かれた状況や環境の中で、可能な限りその能力を使い、人間社会を構築し、牽引し、改良していくことが「豊かな人生」の本質でしょう。そこには愉悦や快楽がありますから、これは「愉しくて悦んで快くて楽しい人生」と言い換えることもできるでしょう。さらに言い換えれば、それは本能が十分に満たされた人生だとも言えるでしょう。
類人猿からの進化の初期の過程においては、種の存続のための本能が、他の動物種と同様に狭い範囲に留まっていたはずで、そこには人間社会の改良という大きな概念は無かったはずで、必然的に快楽の範囲も狭かったはずです。しかし、進化を重ねて生存に優位な状況を確立した後は、言い換えれば、短期的には種の存続そのものを心配する必要が薄れた後は、その本能をベースにした思考の及ぶ範囲が、時間的にも長く、空間的にも大きく捉えることができるようになり、やがては自分自身の存在を考察し、ついには宇宙と地球の関係までに到達しました。すべては、長いスパンで、永遠とも思える未来を見据えて、種を存続するための飽くなき論理的思考を重ねた結果です。そしてこの過程で、理論的思考そのものに愉悦や快楽を感じるようになります。それは達成感や機能美などの言葉で表わされるものです。思考の広がりとともに、快楽の範囲も劇的に広がりました。
このように、空間や時間を論理的に大きく捉えることが可能になった人類が、あるとき心地良い音の組合せがあることに気付きます。主に耳から入ってくる愉悦と快楽です。旺盛な好奇心は、すぐにその論理的な探求を行い、現象の本質を探り当てます。見つけた理論を少しずつ、しかし間断なく発展させ、現在につながる細かな音楽理論を構築します。すべては、より強い愉悦や快楽を求めるための試行錯誤の結果です。
以下は蛇足ぎみですが、技法的な理論は著しく発展した現在でも、これらの理論の中枢となるべき理論は、まだ解明されていません。それはたとえば、メジャーコードを聴くと安堵し、マイナーコードを聴くと悲しくなり、不協和音を聴くと不安になるのはなぜなのか、という最も根源的な部分です。おそらくは脳や神経と密接に関わっているはずで、ここに辿り着くためには脳の仕組みをさらに解明する必要がありそうです。
根源的な部分は未解明であるとしても、音楽を理解して楽しむ=愉悦と快楽を得る上では、人類にはすでに十分な歴史と英知の蓄積がありますし、逆に根源が未解明であるからこそ、そこにはさらに探求という愉悦まであります。
愉しく豊かな人生を作りましょう。
[おまけ]
今回、上記のような、日頃から考えていることを一度まとめてみようと思ったのは、考えれば考えるほど知識欲が増して、必然的に伝えたいことが増え、一度に話しきれない量になってきたことに、あらためて気付いたからです。そのような意味でも、たいへん有意義な時間でありました。(我ながら話が長いと思います)