真夏の5分間 (本格推理小説)

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プロローグ

その年の梅雨は6月中旬に明け、史上最短を記録した空梅雨となった。摂氏40度を超える連日の猛暑は、容赦なく市井の人々を肉体的にも精神的にも消耗させていた。熊谷の住む熊谷市は特に暑くなる地形であり、その日の全国最高気温地点となることもしばしばである。これで有名になることは、地元にとってはむしろマイナスだが、何も特徴がないよりは幾分マシではないかと思ってしまうのは、おそらく熊谷が生粋の埼玉県民だからであろう。

明治初期に、かの前島密により国策として始まった郵便貯金制度は、激動の昭和を乗り越えた後に、小泉純一郎による平成劇場型政治の大道具として利用され、やや拙速な形で民営化された。現代においては民間の銀行と同様の立ち位置となり、その名称も「ゆうちょ銀行」と緩い雰囲気を纏っている。

郵政省の時代に発行された磁気ストライプ型キャッシュカードは、磁力が劣化しない限りは古いものでも現役である。しかし金融業界全体の流れとしては、より安全なICチップ型カードへの置き換えが進んでおり、さらにはクレジットカード機能、デビットカード機能、電子マネー機能などを付加して一体型となったキャッシュカードを選べることが多く、ゆうちょ銀行も例外ではない。

熊谷市が満を持して40度地点に名を連ねた7月1日、リモートワークがひと段落したところで、熊谷は自宅近くの郵便局を訪れた。手持ちの古いキャッシュカードを、新しいICチップ型カードに切り替えるためである。ネットのサイトで下調べをしたとおり、手続きに必要とされていた、古いキャッシュカード、古い通帳、印章、本人確認書類としての免許証を携え、炎天下を2分ほど歩いて小さな郵便局、つまりはゆうちょ銀行の支店に入ると、他に待っている客はなく、すぐに窓口へと進むことができた。

申請書類に記入していると、選べるカードの種類は

  • クレジットカード機能付きキャッシュカード [JP BANK]
  • デビットカード機能付きキャッシュカード [ゆうちょデビット]
  • 電子マネーカード機能付きキャッシュカード [Suica]
  • キャッシュカード機能のみ

の4つであった。

熊谷はすでにクレジットカードを9種類所持しており、状況に応じて使い分けている。JP BANK カードは国際ブランドとして VISA, MASTER, JCB のいずれかを選べるが、手持ちのカードと比べて優位な点は無いため、クレジット機能は不要であった。また Suica は iPhone のモバイルSuicaを使っているため、やはり不要である。熊谷の日常的なキャッシュレス決済において、デビット機能を使う場面がないことから、キャッシュカード単独機能で事足りる。

しかし銀行キャッシュカードには、一般的に有効期限という概念が無い。これは長所であり、短所でもある。生体認証付きのキャッシュカードの場合、それが指紋にせよ静脈にせよ虹彩にせよ、生体側は生体であるがゆえに多少なりとも変化を伴う。そのため定期的に生体情報をアップデートすることが望ましく、そのたびに窓口に出向いて生体情報を登録し直す手間がかかる。これは短所ではあるが、裏を返せばそれだけ安全という長所になる。このとき、必然的にICチップや磁気ストライプ自体の不良チェックをしていることも長所と言える。しかし生体認証が付かないキャッシュカードは更新されないことが一般的であり、摩耗などで経年劣化するまで同じカードを使い続けることになる。忘れた頃にカード不良となり、慌てる確率が高い。

ところがゆうちょ銀行の生体認証付きキャッシュカードには、ひとつ盲点がある。ゆうちょ銀行の生体認証は指静脈認証であるが、じつは静脈センサーが付いていないATMでも、暗証番号だけで使うことができる。これでは何のための生体認証か、という話になってしまう。手間が増えるだけでメリットが無いわけで、生体認証を有効にするモチベーションを失う。

一方で、じつはクレジットカードやデビットカードを付けると、その有効期限に引っ張られる形で、定期的に新しいカードに更新される。経年劣化リスクを避けるには有効な運用であり、ゆうちょ銀行のケースでは生体認証よりも優れた選択肢ということになる。

熊谷は申請書の「ゆうちょデビット」にチェックを入れ、届出印を捺印した。

「お手続きいたしますので、お座りになってお待ちください。」

窓口の職員は電話で何かを確認している様子だ。ほどなくして、

「熊谷様。たいへん申し訳ございません。ゆうちょデビットカードへの切り替えはオンライン申請となっておりまして、こちらの申請書ではございませんでした。不勉強で失礼いたしました。記入いただいた申請書は破棄させていただきますので、お手数ですがこのQRコードからお手続きをお願いいたします。その際、本人確認はお電話での自動音声によるワンタイムパスワード連絡となり、通帳・お届け印・運転免許証は必要ございません。」

と、QRコードが印刷されたパンフレットを手渡された。

(つづく)

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